リスクを正しく計る

誰にできるというのだ、狼狽のうちにおちつき、激して動せず、忠節の心を平静の水で薄める、しかもそれを同時に?できるものか、誰にも。王に対する敬愛の念、その逸る心が、止め役の理性を乗り越えてしまったのだ。 --マクベス(シェイクスピア)

行動そのものに価値を求めない限り、行為の意味は、結果が出るまでわからない。マクベスの言う「王」は、現代においては、その場の空気だったり、使命感だったり、説得力はあるけど実証のない仮説だったり、する。
普段、人はシェイクスピア的な思考で行動を選択していくが、「王」が真実に勝利することはない。「王」についていけば、必ずどこかで間違える。

リスクを見極める

苦悩し、感情や周囲の空気に合わせて行動するのも大事だ。それこそが人間らしさであり、そういう人は魅力的だ。共感して涙を流せる感受性の豊かさを否定することはできない。
しかし、結果を求めるなら、そういう感情はしまっておかないといけない。真実は、自然を一つづつ理解し、検証を繰り返す中で、初めて見える。小さな事実は、大きな仮説に勝る。理屈にならない感情を完全に無視する強さがいる。マクベスは「できるものか、誰にも。」というが、やるしかない。

「神学の時代」から始まり、人々はいつも信じるものを探してきた。現代において、それはテクノロジーであり、職業である。

盲信は宗教だけのものか

中世の「身分」に比べて、現代の「職業」ほど、人々を夢中にさせ、空虚さから目を逸らしたものはないと俺も思うが、それは20世紀特有のもので、これから人生と職業はかい離していく。

「虚偽の奇跡により、妄想が煽られ、蒙昧な大衆は欺かれた。 無知や迷妄は、我らを誤り導く。」って、14世紀にダヴィンチが言ってるぐらいだから、この現象は、人類普遍の課題であるらしいけど。

アナロジー

確かに世界はあまりにも複雑で、人間が主観的に判断できる余地が残されていない。テクノロジーと社会制度が切り開くあまりにも多様な選択肢のなかで、人はすべての原理を追うことはできず、何かを信じるしかない。
だけど、理解しない限り、それは盲信であり、宗教と変わらないじゃないか。
いつもいつも根本から考えていたら面倒臭いし変人だが、せめて、自分が能動的に何かを作り上げるそのものには、アナロジーは排除しよう。原理に即さない推論に基づく模倣は、やめよう。
たくさんのオブラートに包まれた世界で二次情報だけに触れていれば、たちどころに心は支配され、どこかで見たようなものになってしまう。アナロジーで考えたものなんて、大抵は自然に比べれば数段歪だ。
身体動作を他の動物と比較すれば解りやすい。静止する、歩く、走る、どの動作も、他の動物と比較して人間の動きが不細工であるのは明らかだ。人は、体の動きを考えることができてしまうので、それによって不細工な動きになる。だが、その思考によって、発展的動作が生まれる。
自分がやるときは、自分で作り上げ、曖昧は残さない。
仮説を立てて、それに基づいて行動を進める。一見まっとうに見えるが、それだけではいけない。
一度仮説が生まれたら、それを自然のレベルに落とし込むまで、分解し、現実世界で検証する。その工程で、人は思考の罠から逃れ、想像の先にあった真実に近づくことができる。